根津甚八の芸名の由来となった真田十勇士の祢津甚八郎貞盛とは?

2 min

どうも!

 

左手親指に、魚の目ができて苦しんでいる

Kendomanです!

 

さて今回は、

根津甚八の芸名の由来となった根津甚八郎貞盛とは?

について調べました。

 


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出典先

2016年12月26日に逝去された

根津甚八さん。

 

プロフィールを調べてみると、

芸名の由来は真田十勇士の家臣だったとのこと。

 

どのような方だったのでしょうか?

調べてみました。

 

根津甚八さんの芸名由来の武将とは?

 

根津甚八は、真田十勇士の家臣である、

「根津甚八郎」が芸名の由来だそうです。

 

劇団「状況劇場」での所属時に、

主宰の唐十郎さんが本名の「根津」に

合う芸名として、命名されたそうです。

 

かっこいい名前ですね。

しかも芸名にそんな由来があったなんて。

根津甚八郎はどんな人物だったのか

調べてみました!

 

根津甚八郎はどんな武将だったのか?

 

真田幸村の家臣であった根津甚八は、

『真田三代記』では、根津甚八郎として登場。

 

根津の姓は、滋野三家(海野・禰津・望月)の

根津にあたります。

 

モデルになって人物の説が2人いると

されています。

 

一人は、根津小六。

もう一人は、祢津甚八郎貞盛。


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根津小六(根津貞盛)について

 

根津正直の子として、

1569年に誕生。

 

真田十勇士のストーリーでは、

大和絵師だった父正直とともに

旅に出たが、途中で死別します。

 

その後、海賊に転じ、頭領となりました。

 

真田幸村が、熊野灘に赴いたときに巡り合い、

家臣となったのでした。

 

穴山小助とともに、関ヶ原の戦いで活躍しましたが、

大坂夏の陣の最終局面で

幸村の影武者となって

徳川勢に討たれて亡くなりました。

 

命を懸けて、

幸村を守ったのでした。

 

というストーリーです。

 

もうひとつの説は、こちらです。

 

祢津貞盛(祢津甚八郎貞盛)の説

 

祢津信光の次男として生を受け、

真田昌幸に仕えていたようです。

 

14歳で初陣を果たし、

1583年には上杉景勝と戦い、

打ち破っております。

 

1586年ごろから真田幸村の小姓たちと行動を

共にしていたようで、仲間入りしました。

 

豊臣秀吉から命じられて、

真田幸村が九鬼水軍について熊野灘で探索することになったときに

根津甚八郎は海賊に身を投じ、情報収集するうちに頭領となったようです。

 

海の専門家として、戦いには強さを誇りました。

 

「真田三代記」では、この熊野灘で、

真田幸村が根津甚八郎を家臣にしたと言われています。

 

そして、大阪夏の陣で、真田幸村の影武者となり、

加賀前田家の家臣である本田安房守に討たれ

45歳で果てたそうです。

 

 

感想とまとめ

 

いずれの説にしても

熱い武将だったんですね。

生きざまより、死にざま。

歴史に残ったのでしょう。

 

以上、

根津甚八の芸名の由来となった根津甚八郎貞盛とは?

に関する記事でした。

 

今回も最後までお読みいただき

誠にありがとうございました!


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